『異邦人』

私の友だちにある男の子がいます。ある日、彼から自殺の企みを告白されました。「君は『異邦人』を読んだことあるかい?」と彼が私に尋ねました。「いいえ、どうして?」「あれはぼくと似てるのさ。君はぼくがいつも周りの人の気持ちを気遣いしてるのがとても偉いと言ってたけれど、本当は違うんだ。ぼくはただほかの人に不快を感じさせる理由がないだけだった。」果たして人はこんな理由で行動することができるのか?私は彼の言論を疑っていました。

「ぼくは知っちゃいけない彼女の世界に入り込んでいた。しかし今はもうあのぼくにとっての美しすぎる世界に戻れない、ぼくはもうよそものでしかならない。実は来月あたりに自殺するつもりだったが、もう君に告白しちゃったから、君に罪悪感を持たせたくない。とりあえず生きていくよ。」

私はその言葉に反論できませんでした。しかし「なぜ私に?」の疑問だけがずっと私を捕えていました。彼の気持ちを少しだけでも理解したかったため、私は『異邦人』を読み始めました。「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。」からの始まりが私に強く衝撃を与えました。一瞬、これが未来の自分が書いたものに見え、もしも自分も母が亡くなるときにムルソーのように何も感じなかったらどうすればいいのか、勝手に混乱し始めていました。「何なんだこの本は」と思いながら、テキストに溢れている疎外感に取り憑かれ、読むことが止められなくなりました。まったく関係のない他人のように自分のことを語る書き方があまりにも馴染んでいるからかもしれません。小さい頃に親と生まれた町から都会に転居した私は、よく人に「あなたの喋り方はどこのアクセントもついていないね」と言われていました。「ああ、そうか、私はどこにも属しない人間なんだ。」よそ者はどこに行ってもよそ者だと、私はずっとこういった孤独感を抱えていました。でもカミュはよそ者の気持ちをよく理解している、私以外にもよそ者が大勢いると、こんなちっぽけな考えが私のちょっとした救いになりました。

ある台湾映画の最後で、主人公である中学生の少年が好きな女の子を殺すシーンを観たときに、私はカミュが『シーシュポスの神話』で持ち出した反抗についての言葉を思い出しました。「こうした反抗が生を価値あるものたらしめる。ひとりの人間の全生涯につらぬかれたとき、反抗はその生涯に偉大さを恢復させるのだ。」ムルソーの殺人は理由がないかもしれませんが、この少年の殺人は彼の反抗、この世界の全ての不条理を解決する唯一の方法だったと、私は考えていました。しかし私の生を価値あるものたらしめる反抗はどこにあるのでしょうか。

モームの『月と六ペンス』に私が一番引っかかるセリフがあります。「生まれる場所をまちがえた人々がいる。彼らは生まれたところで暮らしてはいるが、いつも見たことのない故郷を懐かしむ。生まれた土地にいながら異邦人なのだ。」この言葉に強く共感したのは自分だけなのか?もしくは誰でもそう感じてるかもしれません。私はこれからも異邦人でありながら方々をさまよって終の住処を探そうとするのでしょうか。結局、あの男の子については、私は理解できたような、また理解できなかったような気持ちでいました。少なくとも、彼は私から同じくよそ者の気配を何かしらで感じていた、これだけは言えるのでしょう。