松浦理英子『奇貨』

だがそれ以上に、ホテルの一室で一人ぼっちになり、金も情熱もなく、自分自身のなかに追いやられ、自分の惨めな想いにふけるのが嫌だった。(…)それに、日の暮れがたになると、ちょうど魂の飢えのように、なにかがふたたびぼくの心のなかで空虚になるあのホテルの部屋。(…)ここ数日来、ぼくはただのひとことも発していなかった。そして心は、押えられた叫びや反抗で張り裂けんばかりだった。カミュ『魂の中の死』

私は休日よりも学校がある日の方が好きだ。それがどうにも理解できないという同級生の友達に「何もない休日は家で一人になって惨めな自分と向き合わないといけない」と説明したら、「自分と向き合わないで、ゲームしたり本読んだりすれば?」と返され、「本はね、読むと自分のことを考えてしまう」と私は答えた。その時に頭に思い浮かんだ本は松浦理英子の『奇貨』だった。松浦理英子の名前は去年、私の好きなM先生が新人賞で佳作をとった小説を読むために入手した文芸誌の選考委員選評で、初めて知った。その佳作に対して「シンプルなことばの連なりから情感が滲み出してくる。文章とは本来こういうものだったはずではないか」の一行に私は強く共感を覚えた。そのあと松浦理英子レズビアンの小説で有名だと知って気になり、『ナチュラル·ウーマン』を読んだが、結局「A感覚」がわからないまま大した感想も出なかった。そして今年のある日、そのM先生に「松浦理英子大先生の本よ、読んで」と『奇貨』の文庫本を無理矢理押し付けられた。この小説は、なんと言えばいいのだろう。『ナチュラル·ウーマン』とは全然違って、『奇貨』ではいろんなところに自分がいる。

<半端ヘテロ>っていうのは基本はヘテロセクシュアルなんだけど、異性にしか興味がない完全ヘテロの人たちとは違って、同性にもいくらか興味や愛着があるのね。でも、バイセクシュアルの人たちほどセクシュアライズされていないっていうか、自覚的・行動的ではないというか、同性に対して揺れ動いて時には性行為をしたりもするんだけれど、結局中途半端にしか同性とかかわらないの。

まあセクシュアリティにしても精神的なものにしても別に突き詰めなくたって楽しく生きて行くことはできるんだから、突き詰めるか突き詰めないかは人それぞれでいいと思うの。心に鎧をまとっている人がいるとして、その人が鎧を取った方が楽に生きられるとは限らないものね。セクシュアリティと来たらあるレベル以上に突き詰めるとどんどんマイナーになって実現不可能なところまで行きかねないし。

これはもはや私の苦しみの根源とも言える。いくら考えても答えが出ない、答えが出たとしても何にもならない。「セクシュアリティって結局パーセンテージよ」と言われたこともある。何度も何度も、「もしこんなこと考えないでただ世間一般のパターンに従う人生だったら、きっともっと楽に生きていけるんだろう」と思った。しかしそれでも私は未だに自分を苦しめながら、永遠に考え続けている。そしてここでふと思ったのだった。<半端ヘテロ>の「異性」と「同性」を逆にすれば、自分にぴったり当てはまるかもしれない。セクシュアルマイノリティって、そもそも本当にマイノリティなのか。セクシュアルマイノリティという分類の中にもマジョリティとマイノリティがいれば、その「マジョリティ」の人たちは自分がマイノリティだと言えるのだろうか。そして語り手の本田のような、「マジョリティ」に属しているが本当はマイノリティ、自分がマジョリティだと言い切れない人もいる。そう言いながら実際、同性の友達ができない、また異性とは友達になれるが恋人にはなれない本田に共感している読者もかなりいるはず。なら一体、何がマジョリティ、何がマイノリティなんだろう。

親しい友人同士だったはずなのにひとたび仲たがいすると以後一顧だにしないばかりか、他の友人との会話でもその元友人の名はいっさい口にしなくなり、誰かにその元友人について聞かれれば「この頃はどうしてるか知らない」と不気味なほど無感情に応える、自分の人生に確かに存在していた者を抹消するあの酷薄さだ。

私も思う、自分に対して、そして女として、なんて冷たいんだろうといつも思う。女はつきあっている男に愛想を尽かすと信じられないほどの冷たさできっぱり捨てることができるのも、事実だと思う。今日は愛想が良くて優しいが、明日は冷たくてどうでもいいように扱われる。自分を処刑台に載せられた気分だった。なぜこんな風に態度を百八十度転換できるのだろう、昔はあれだけ仲がよかったのに。一緒に過ごした時間は全部無駄だったのか。宝物だと思っていた楽しい思い出はもう簡単にゴミ箱に捨てたのか。そういう自分も今まで、少なくない他の人に、こんなことをしてきたのだった。

だけど、きみたちも少し被害者意識が強くないか?

ここで「まさにそうなんです! 理英子先生!」と叫びたくなった。この前SNSで見た一文を思い出したのだった。「女の子たちの自分を守る手段をシェアしましょう」というポストに付けられた、「ヘテロ女性と距離を置くこと」というコメントが反響を呼んだ。「わかる…痛い…」と賛成する人がいれば、「ちょっとあんたたち被害者意識強すぎない??」と反対する人もいる。被害者ぶるのは、情けないことだろう。でも私みたいな弱い人間に、被害者ぶる以外の何ができると言うのか。

『奇貨』はセクシュアルマイノリティの小説なのか? いいや、これはみんなの小説だ。女性をもっと知りたいなら『奇貨』を読め。

『異邦人』

私の友だちにある男の子がいます。ある日、彼から自殺の企みを告白されました。「君は『異邦人』を読んだことあるかい?」と彼が私に尋ねました。「いいえ、どうして?」「あれはぼくと似てるのさ。君はぼくがいつも周りの人の気持ちを気遣いしてるのがとても偉いと言ってたけれど、本当は違うんだ。ぼくはただほかの人に不快を感じさせる理由がないだけだった。」果たして人はこんな理由で行動することができるのか?私は彼の言論を疑っていました。

「ぼくは知っちゃいけない彼女の世界に入り込んでいた。しかし今はもうあのぼくにとっての美しすぎる世界に戻れない、ぼくはもうよそものでしかならない。実は来月あたりに自殺するつもりだったが、もう君に告白しちゃったから、君に罪悪感を持たせたくない。とりあえず生きていくよ。」

私はその言葉に反論できませんでした。しかし「なぜ私に?」の疑問だけがずっと私を捕えていました。彼の気持ちを少しだけでも理解したかったため、私は『異邦人』を読み始めました。「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。」からの始まりが私に強く衝撃を与えました。一瞬、これが未来の自分が書いたものに見え、もしも自分も母が亡くなるときにムルソーのように何も感じなかったらどうすればいいのか、勝手に混乱し始めていました。「何なんだこの本は」と思いながら、テキストに溢れている疎外感に取り憑かれ、読むことが止められなくなりました。まったく関係のない他人のように自分のことを語る書き方があまりにも馴染んでいるからかもしれません。小さい頃に親と生まれた町から都会に転居した私は、よく人に「あなたの喋り方はどこのアクセントもついていないね」と言われていました。「ああ、そうか、私はどこにも属しない人間なんだ。」よそ者はどこに行ってもよそ者だと、私はずっとこういった孤独感を抱えていました。でもカミュはよそ者の気持ちをよく理解している、私以外にもよそ者が大勢いると、こんなちっぽけな考えが私のちょっとした救いになりました。

ある台湾映画の最後で、主人公である中学生の少年が好きな女の子を殺すシーンを観たときに、私はカミュが『シーシュポスの神話』で持ち出した反抗についての言葉を思い出しました。「こうした反抗が生を価値あるものたらしめる。ひとりの人間の全生涯につらぬかれたとき、反抗はその生涯に偉大さを恢復させるのだ。」ムルソーの殺人は理由がないかもしれませんが、この少年の殺人は彼の反抗、この世界の全ての不条理を解決する唯一の方法だったと、私は考えていました。しかし私の生を価値あるものたらしめる反抗はどこにあるのでしょうか。

モームの『月と六ペンス』に私が一番引っかかるセリフがあります。「生まれる場所をまちがえた人々がいる。彼らは生まれたところで暮らしてはいるが、いつも見たことのない故郷を懐かしむ。生まれた土地にいながら異邦人なのだ。」この言葉に強く共感したのは自分だけなのか?もしくは誰でもそう感じてるかもしれません。私はこれからも異邦人でありながら方々をさまよって終の住処を探そうとするのでしょうか。結局、あの男の子については、私は理解できたような、また理解できなかったような気持ちでいました。少なくとも、彼は私から同じくよそ者の気配を何かしらで感じていた、これだけは言えるのでしょう。